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織田信長は好き?~浅井長政のドクロ杯~(3)

読了までの目安時間:約 2分

 

織田徳川軍が浅井朝倉軍と決着をつけるには

その後、3年の年月を要した。

義理の弟の裏切りによって、信長が理想とする

天下一統プロジェクトは、数年遅れたのだ。

 

注目すべきは、長政の裏切り以降、

信長の政策(軍事行動?)が変わったとされる。

 

 

それまでの信長は、現在のイメージは真逆の寛容な男だったという。

尾張統一まで織田家同士の身内との戦で約10年を費やしたが、

その間に残虐な逸話はない。

 

逆に、敵対した武将であっても、美濃の斉藤龍興を助命し、

伊勢の北畠氏には次男信雄を婿養子に入れ(滅ぼさず)、

敵対した弟・信行の息子である信澄や

信行に従っていた柴田勝家も家臣として迎えた(許した)。

反乱した兄の信広も降伏すれば臣下とした。

残虐どころか、寛容すぎてとても危険なことばかりしている。

 

ところが、史実にある最初の(?)残虐行為は、

長政との戦いからなのである。

籠城する長政を引き出すために、城下である北近江を

焼き討ちにしたのだ。

 

身内(妹婿)の裏切りにあい、自らが滅ぼされる

窮地に立ったのち、信長は目的のために手段を選ばなく

なったのだ。

 

ここで、信長が滅んでいれば戦国時代が長引いて

世の中は混乱したままだったに違いない。

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