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織田徳川軍が浅井朝倉軍と決着をつけるには
その後、3年の年月を要した。
義理の弟の裏切りによって、信長が理想とする
天下一統プロジェクトは、数年遅れたのだ。
注目すべきは、長政の裏切り以降、
信長の政策(軍事行動?)が変わったとされる。
それまでの信長は、現在のイメージは真逆の寛容な男だったという。
尾張統一まで織田家同士の身内との戦で約10年を費やしたが、
その間に残虐な逸話はない。
逆に、敵対した武将であっても、美濃の斉藤龍興を助命し、
伊勢の北畠氏には次男信雄を婿養子に入れ(滅ぼさず)、
敵対した弟・信行の息子である信澄や
信行に従っていた柴田勝家も家臣として迎えた(許した)。
反乱した兄の信広も降伏すれば臣下とした。
残虐どころか、寛容すぎてとても危険なことばかりしている。
ところが、史実にある最初の(?)残虐行為は、
長政との戦いからなのである。
籠城する長政を引き出すために、城下である北近江を
焼き討ちにしたのだ。
身内(妹婿)の裏切りにあい、自らが滅ぼされる
窮地に立ったのち、信長は目的のために手段を選ばなく
なったのだ。
ここで、信長が滅んでいれば戦国時代が長引いて
世の中は混乱したままだったに違いない。